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  • 「初代皇帝」と「始皇帝」の違いは?
    始皇帝も初代皇帝も、単語自体の意味は同じ(「最初の皇帝」)です。 ただし、「初代皇帝」という言葉はどの王朝でも使います(「前漢の初代皇帝」「唐の初代皇帝」など)が、「始皇帝」という言葉は「秦の始皇帝」にしか用いません。秦王政が自ら「秦始皇帝」という全く新しい称号を設けたためです。(本来なら「二世皇帝」「三世皇帝」……と続いていく予定だったのですが、秦が短期間で滅亡してしまい、「皇帝」という称号だけ残りました。) 長い中国史のなかで皇帝は何人もいますが、その一番初めの皇帝が「秦の始皇帝」なので、呼び方も別格なのですね。
  • 『史記』以前の歴史書はなかったのか?
    『史記』は約52万字もの膨大な歴史書で、中国における歴史記述の基礎を形作った偉大な書物ですが、もちろん『史記』以前にも歴史書は書かれています。たとえば、孔子が編纂したと言われる魯の国の年代記『春秋』も、堯・舜らの言行を記した『書経』も当然歴史書のカテゴリーに入るでしょう。ただ、それまでの歴史書は全て「特定の王」「特定の国」「特定の分野(政治史など)」についての歴史を記述していて、「中国」の歴史の全体像を見渡すことは困難なのです。もちろん、「秦」という統一国家が生まれていない時代の話しなので仕方がないのですが、「中国全体の歴史」という大きなフレームで、しかも読み応えのあるエピソードをふんだんに散りばめた歴史書は『史記』が最初で、それだけ周囲に与えた影響は絶大でした。
  • なぜ古代中国は残酷な刑罰を執行するのか?
    逆に、なぜ現代社会ではそうした残酷な刑罰があまり見られないのかを考えてみてください。それは、法律がきちんと整えられていて(法整備)、法を守らなくてはいけないという市民のモラル・意識もきちんと醸成され、警察・裁判所・刑務所にいたるまで行政システムが築かれているからです。ところが昔はこうはいきません。 自分の利益を守ってくれるはずの警察や裁判所はまだ上手く機能していませんし、そもそも「国」自体が無くなってしまうこともよくある。つまり、自分の利益は自分で守り、他人を押しのけけてでも生きなくてはいけない、という考えを多くの人が持っています。そうなると、犯罪もかなり横行していきます。民衆の中から「犯罪はいけないことだ」という声がなかなかあがらないこともあります。宗教上の「戒め」が存在していても、ご都合主義的な解釈変更によって簡単に吹き飛んでしまうことは歴史上多々ありました。そうした治安の悪化は、場合によっては国家を転覆させようとする動きにまで発展することもしばしばです。国としては当然放置することはできませんので、手っ取り早く「犯罪はダメだぞ!(怒)」「国(王・皇帝)に楯突くなよ!」というメッセージを発信する。その手段として、「うぇぇ!ひでぇな…」という声が聞こえてくるほどの無残な殺し方をして、民衆にさらします。つまり、「悪いことをするとお前もこうなるぞ!」という見せしめのためにやるんです。ちなみに、これは中国に限った話ではありません。民衆モラルや行政システムが未熟であれば残虐な刑罰が執行される可能性が高い。ヨーロッパ諸国も日本も、昔はかなり残虐な“見せしめ”的な刑罰が執行されていました。
  • なぜ広大な「中国」を統一することが可能なのか?
    大変良い質問です。 あれほど広大な領域である「中国」が、秦という1つの国によって統一がなされたことによって、「中国」は統一が可能なのだ、という一種の“前例”が出来上がりました。ですから、秦に続く歴代の中国王朝は、まず「中国の統一」を達成しようと躍起になるわけですね。 では、そもそもなぜ広大な中国という地域は統一可能なのか。 理由はいくつか考えられるでしょうが、一つには「比較的平たい土地(平野)」であることが挙げられるでしょう。つまり、移動の障壁となる要素が少なく、あちらこちらに移動しやすい。黄河と長江という2つの大河がありますが、これは川幅こそ広いものの流れは緩やかで、障壁というよりはむしろ移動を促進する要素となります。「南船北馬」という言葉がありますが、これはまさに馬と船でどこへでも行けてしまう中国という土地の特徴をよくあらわした四字熟語であると思います。
  • なぜ青銅器に文字(金文)を入れたのか?
    大変いい質問です!青銅器に鋳込まれた文字(金文)ですね。 何が書いてあるのか、確かに気になります…。 実は現在のところ、解読作業・研究はまだ終わっていません。(つまり未解読のものがたくさんあります) 解読が済んでいる金文の内容を紹介すると、 「○○の戦いで活躍し、その褒美として王からこの青銅器をつくる資金を頂いた。だからこれを代々大切に受け継いで家宝にして欲しい」 という具合です。 “この青銅器は、こういうシチュエーションでつくられたんですよ” “王様、神様(天帝)、ありがとう” “大切にします”           という意味の文章がほとんどのようです。 ちなみに、上の写真の「金文」ですが、 そもそもこれがどのような方法で作られたのか、いまだに判明していません! これ実は、青銅器を作ったあとにガリガリと文字を刻んだのではなく、ドロドロの青銅を冷やして固めて出来上がった時点でナントすでに文字が入っているんですね。かなりの高度な技術ですが、当時の技術力でどうやって仕上げたのかがナゾなのです。是非とも解明して下さい。
  • なぜ劉邦は項羽の部下になった?
    陳勝・呉広の乱が勃発して、秦の国内は一気に争いの渦に巻き込まれていくんですが、劉邦の住んでいた「沛県」という地域を治めていた県令(町長みたいな人)も、「秦」と「反秦」のどっち側につけばいいか迷っていました。すると、蕭何(しょうか)や曹参(そうしん)という大変優秀な人物らが、自分たちが「兄貴分」として慕う劉邦をトップにして、「反秦」側に味方したほうがいい、と助言したため、劉邦一派が「沛県」を代表して戦争に参加をするのです。 このとき、「反秦」側を束ねていた人物が項梁という人物でした。この人物は項羽の叔父さんにあたります。劉邦は項梁の部下として戦争に参加をし、やがて頭角を現した項羽がその地位を上げると、自動的に「項羽の配下」として位置づけられるようになっていったというわけです。
  • なぜ魏は赤壁の戦いで負けた?なぜ水に弱いの?
    素朴な疑問ですが、ちゃんと質問するところが素晴らしい! 魏は圧倒的なスピードで南下し、蜀や呉を圧迫しましたが、水上戦の経験は浅かったのだろうと思います。そもそも、中国北方で水上戦になりそうな戦場があまりありませんからね。また、これは私の個人的な考えなのですが、曹操は匈奴と何度か戦って見事勝利し、その際に匈奴の兵を魏に取り込んでいます。つまり、魏が速攻を仕掛けられたのは、匈奴の戦術を学んでいたからではないのかと思います。しかしそれはあくまで「陸地」での話し。さすがに匈奴といえども、水上戦に長けてはいません。 対して呉は、日頃より水上戦には馴れていたため、蜀と上手く連携して魏を敗退させました。もちろん、魏が負けた理由は他にもいくつかあり、補給ラインが整わなかった、疫病が流行した、などの説は有名です。最近では、「赤壁の戦い」そのものが創作されたエピソードで、そのような戦いはなかった、という説まで登場しています。
  • なぜ張騫は殺されなかったのか?
    確かに、張騫が殺されなかったワケをもう少し詳しく知りたいですよね。ただ残念ながら、今となっては匈奴の単于と張騫のやり取りの詳細を知ることはできません。単于自身が、張騫を「見どころのある男だ」と認めたために助命され、財産や妻を与えられたことしか分かっていません。 しかし、張騫が助命された理由を想像することは可能です。 例えば、当時から中国は異民族を自分たちよりも低い存在として見なしていました。これは「バカにして差別している」という単純な話ではなく、自民族の生活を守るための防衛手段として、精神的なまとまりを形成したにすぎません。古代ギリシャ人が、異民族を「バルバロイ」として扱ったのと構造的には同じです。 ただ、張騫はこのような考えが当たり前の時代に、「匈奴(異民族)であっても、一人の人間として接してみなければ、どういう人間なのか分からない」という意識を持っていたのかもしれませんね。単于が張騫を取り調べる中で、「こいつは普通の漢の人間とはちがうタイプの人間ではないのか?殺すにはもったいないな」と思ったのは、本来見下しているはずの匈奴の王(単于)に対しても、一定の敬意を払いながら武帝から与えられた自分の使命を堂々と語る姿に、単于が心を打たれたからなのではないか、と私は想像しています。
  • 張騫のその後は?
    張騫のその後、たしかに気になります。 張騫が匈奴人の妻子を連れて戻ってきた時、武帝は大喜びしたそうです。自分の命令を忠実に遂行する張騫は、大月氏との同盟は結べなかったものの、その功績が認められてその地位がグンとあがります。 その後は、西域に関する情報を駆使して匈奴討伐や交易ルートの開拓に尽力しました。ところがある時、皇帝の命令遂行の期日に間に合わなかったため、規律通り「処刑」が言い渡されることになりました。当然周囲からは助命嘆願の声があがります。また皇帝も多大な功績がある張騫を殺すことは忍びなく思い、結果的には、「地位の剥奪」に減刑されたというエピソードもあります。しかし、その後も張騫は皇帝や政治家、軍人らに精力的な助言を続けたといいますから、まさに不屈の魂をもった人物だったのでしょうね。
  • 阿房宮って、具体的にどんなところにお金がかかっている?
    これはまた難しい質問ですね~(笑) というのも、阿房宮に関係する詳細な記録はあまり残っていないのです。司馬遷の『史記』には、阿房宮は項羽が燃やしてしまい、その火が3ヶ月も消えなかったという記述があります。その真偽はさておいても、遺跡自体もほとんど残っていないと考えていいでしょう。 現在、陝西省西安市にほど近い阿房村の小高い丘に、「阿房宮」の跡地が残っていますが、ここに本当にあったのかは正直疑問ですね…(笑) 「阿房宮は一万人を収容できる広場が真ん中にバーンとあった」、と伝えられていますが、そんな宮殿が丘につくれるわけないやんけ……、という具合です。 それよりも、その跡地の近くに、でっかい「阿房宮テーマパーク」をつくって、ちゃっかり金儲けしようという中国人のバイタリティに驚かされます(笑)
  • 塩・鉄・酒の専売によって、従来それらを売っていた民間業者ともめなかったのか?
    良い質問ですね! 歴史事項を当時の人々の目線で見た時にどういう問題が起こりうるか、という視点を持つことは非常に重要です。素晴らしい。 この専売制は、やっぱりむちゃくちゃもめたんですね~。専売にする、ということはそれまで売っていた商店に対して「もうあなたは売ってはいけない。別の商品を売りなさい」と強要しているわけですから、「そんなこといきなり言われても困るよ!」という民間業者の怒りの声は当然です。この事態を重く見た政治家も多く、皇帝の前では日々激しい議論が繰り広げられていたようです。 【専売反対側の主張】 「国と国民が商売を競い合うのが、どうして良いといえるのか!絶対に国が勝つのだから、国民の不満は高まるばかりだ!」 《専売賛成派の主張》 「そんなキレイ事を言っても、漢王朝の財政状況は悪くなる一方だ!どこかでなんとかしないといけないだろう! それに、国が介入することで物価が安定して、結果的には国民の生活を守っていることにもなる!」 どちらの主張も正論を含んでいるので、武帝自身も相当な葛藤があったようです。最終的には政治家の桑弘羊が武帝を説き伏せて、専売制を実行させたと言われます。いつの時代も、政治の舵取りは難しいですね……。
  • もし、漢とローマが戦ったらどうなるか?
    おお!とても面白い思考実験ですね~! 実際、どっちが勝つんだろう? 同じ数の兵が、城郭も山も川も無い平野でぶつかるのなら、両者の戦法がモノを言いますね。 ローマ…ファランクスなどによる歩兵戦は強力。「中近距離戦」はかなり得意。 漢…騎馬戦法や弓・弩(いしゆみ)を用いた「遠距離攻撃」は大得意。 つまり、「近」のローマか、「遠」の漢か、という対戦構図になりそうですね。 《予想》  ①口火を切るのはローマ。編隊を組んで、戦局を動かすためにまずは突進。  ②遠目でこれを見ながら、弓矢で牽制。  ③その隙にローマが漢の左右を取り囲んで、一挙に押し切る  ④ところが漢の騎馬部隊がスピードを活かして退却  ⑤深追いするローマ  ⑥漢の強力な弩・騎馬部隊がローマを急襲→逃げる→急襲を繰り返す  ⑦ローマが疲弊→陣形が崩れはじめる  ⑧漢の勝利  で、どうでしょうか?
  • 古代の交易において、言葉の違いはどう乗り越えたのか?
    今も昔も、言葉や文字は意思疎通のための大切なツールですから、身振り手振り(ジェスチャー)だけで交易品をやり取りするようなことはほとんどなかったでしょう。古代も、現代と同じように「通訳士」がいました。住む地域が近ければ、全く同じ言葉でなくても、ある程度の意思疎通は可能です。ですから、そういう人たちを雇い同行させて、コミュニケーションをとっていました。 また、遠い地域に交易に行くときも、通訳士を複数用いてコミュニケーションをとっていました。 例えば、「日本語↔英語」でコミュニケーションをとる場合に、 「日本語↔中国語↔ロシア語↔ポーランド語↔ドイツ語↔英語」 のように、複数の言語を介するようなやり方ですね。伝言ゲームみたいですが。 しだいに時代が下ると、商売のための専属通訳士を養成するようになりました。
  • 古代中国の刑罰にはどのようなものがあったのか?
    昔の刑罰って、知ってるとは思いますがかなりむごたらしいんですよね。 そうと分かっていても、なぜか知りたくなってしまう。見ちゃいけないと分かっているのに、ホラー映画を見てしまうのと同じ感覚ですかね(笑) 詳しい刑罰の序列や量刑については研究論文を読まないと分かりませんが、せっかくの質問回答コーナーですので、ここではいくつか特徴的なものをピックアップするにとどめましょうかね。あんまり挙げると、ちょっと気持ち悪くもなるしね(笑) ◎死罪の種類(死罪にも軽いものと重いものがあります…)  ・打首(棄市刑)…最も一般的な死刑。ただし、原則公開処刑&さらし首。  ・腰斬…文字通り「腰」を斬る。打首よりも重罪。痛い痛い。゚(゚´Д`゚)゚。  ・車裂き…4つの手足と首に縄を付けて、それぞれ別々の5頭の馬にせーのっ!で別々の方向に引っ張って殺す… 痛い痛い痛い痛い痛い痛い…(`;ω;´)  ・凌遅刑…中国の刑罰で最も有名な死罪の一つですね。2~3日かけて、ちょっとずつ身体をナイフで削いで……。もうこれ以上は言えません…(;´Д`)   ※古い時代の白黒写真が残っているので、うかつにネット検索すると画像がでてきちゃう可能性があるので、気をつけて下さい。 ◎それ以外の刑罰  ・断指…読んで字のごとく ・鼻削ぎ…読んで字のごとく  ・焼印…読んで字のごとく ・足切り…読んで字のごとく  ・墨刑(黥刑)…イレズミを彫り、犯罪者であることを世に示す  ・宮刑…性器の切断→宦官になる道が残されている       などなど
  • 古代中国の戦法にはどのようなものがあった?
    古代中国の戦法ですか。たくさんありますよ!ただ、ありすぎて何から紹介すれば良いのかが不明ですね…。(あと、私も軍事オタクではないので…) 例えば、「四面楚歌」のエピソードだって、一応「戦法」と呼べますからね。有名なものをいくつか紹介します。 ◎孫臏の竈(そんびんのかまど)  ①わざと敵から逃げ、しかもその際に宿営地の「かまど」の数を徐々に減らす  ②敵は相手が数を減らしていると推測して、調子に乗ってどんどん追いかけてくる  ③深追いしてきた敵の軍勢を取り囲んで一気に殲滅する。 ◎范蠡(はんれい)の目眩まし作戦 ※范蠡…越王勾践に仕えた軍師  ①自軍の兵士の格好をさせた死刑囚を敵軍の目前までいかせ、自殺させる  ②立て続けに、死刑囚をつぎつぎと集団自決させる  ③敵軍が状況を飲み込めずあっけにとられているすきに敵軍後方に回りこみ、攻め落とす
  • 五斗米道について詳しく教えて!
    五斗米道の特徴は、“徹底した福祉活動”にあります。だから、宗教結社と言うよりも「巨大で、絆が強力なボランティア団体」と考えて下さい。悩める人々、貧しい人々、誰を頼ったらいいか分からない人は全て五斗米道の救済の対象でした。五斗米道の宿泊施設、詳しくは「義舎」と呼ばれていましたが、この義舎は宿泊施設であるだけでなく、食糧の備蓄庫でもありました。五斗米道の会員が会費として納めた上納金(米)が、各地の「義舎」へ分配されていたのです。当然、五斗米道の会員でない人に対しても、困っていたり、助けを必要としているようであれば親身になって救済したそうです。ですから、無理やり自分を五斗米道だと偽ってまで「義舎」を利用する必要もないわけです。 このようなボランティア精神のかたまりのような団体だったからこそ、爆発的に信者(会員)が増えていったのです。
  • 呉楚七国の乱について詳しく教えて!
    もともと、呉や楚や趙などを治める有力諸侯らは、劉邦からその地位を与えられたのですが、時代が下って第6代皇帝の景帝の時代になると、そうした有力諸侯の子孫たちの忠誠心も次第に薄れていきます。一方で景帝側も、王朝自体の力も充分付いてきたので、もう郡国制ではなく、「郡県制」で国内を一括管理したほうが良いのではないか、と考えるようになっていました。そこで半ば挑発的に有力諸侯らに与えた土地を削り、皇帝の直轄地をぐっと広げます。呉や楚や趙などを治める有力諸侯らはこれに怒り、反乱を起こすのですが、軍事的にも強大になっていた皇帝はこれをわずか3ヶ月で鎮定します。これ以降、実質的な中央集権体制が形作られることとなったのです。
  • 三国志に登場する武器を教えて!
    三国志は人物だけでなく、有名な馬(赤兎馬や的盧など)や武器も登場しますね。いくつか代表的な武器を紹介しますが、その前にインターネット上に公開されている古代中国の武器の種類を簡単に表した画像を貼っておきます。 ○関羽(蜀の武将)の武器「青龍偃月刀」(せいりゅうえんげつとう)  一番有名な武器でしょう。重さは18キロ!たしかに破壊力は抜群でしょう。そもそもこれを振り回せる関羽が信じられません。 ○張飛(蜀の武将)の武器「蛇矛」(だぼう)  波打つような刃先が特徴。この刃に斬られると、通常の矛よりも傷口が深くなるため、ダメージ大! ○呂布の武器「方天戟」(ほうてんげき・「方天画戟」とも) 「戟」という特徴的な形状をした武器。これを使いこなした呂布は三国志上最強の武将と称されます。
  • 三国志の馬鹿っぽい面白話しを教えて!
    三国志は優秀な人ばかり出てくるので、むちゃくちゃ馬鹿っぽい話はあまりないんですよ。諸葛孔明に「勝手に軍を進めたらあかんよ」と命令されていたにも関わらず山の上に陣取って、あっという間に水を断たれて兵士を減らして処刑された馬謖(ばしょく)(「泣いて馬謖を斬る」の馬謖です)とかは有名ですけどね…。 その他、呉の孫権に仕えた武将黄蓋(こうがい)の可哀想なエピソードはどうでしょうか? 黄蓋は、蜀と呉が魏の進行を食い止めることに成功したあの「赤壁の戦い」のヒーローです。曹操へ寝返るふりをして船で近づき、乗っている船に自ら火を放ち、燃え上がる船を曹操軍の船団に突入させました。これによって魏はパニック状態となって戦陣を乱し、敗走するのです。 赤壁の戦いの勝敗を決定づける働きをした黄蓋ですが、戦闘から逃れる際に負傷して、川に落ちてしまいます。すぐさま別の味方の船に救助されますが、誰も黄蓋の顔を知らなかったため、「じっとしてろ」と言われたまま船のトイレにずっと放置されてしまいました。ヒーローなのに。 あとで友人の韓当という人物がトイレにぽつんといる黄蓋に気づき、あわてて傷の手当をしたので命が助かったという話です。
  • 刺客荊軻の後日談を教えて!
    荊軻の後日談を知りたい?? いいですね~。素晴らしい。 漢文の授業では『十八史略』の文章を用いることが多いようですが、司馬遷の『史記』にはもっとくわしく記述されています。 荊軻の友人であった高漸離(こうぜんり)という人物は、暗殺失敗の後に国内を逃げまわるのですが、「筑」(チク:琴のような楽器)を弾くのが上手かったため有名になり、始皇帝のもとに呼ばれます。始皇帝は高漸離が荊軻の友人であった ことを知り、殺そうかとも考えましたが、楽器の素晴らしい腕前を惜しんで殺すことをやめました。その代わり、自分を襲うこ とがないように“目をつぶして”、そばに仕えさせました。 その高漸離がどういう行動に出たのか、文献から見てみましょうか。 司馬遷『史記』 より 高漸離乃以鉛置筑中 復進得近 舉筑朴秦皇帝 不中(まさかの笑!!) 於是遂誅高漸離 終身不復近諸侯之人 高漸離は、乃ち鉛を以って筑の中に置き、また進みて近づくを得、筑を舉(あ)げて秦の皇帝を朴(う)つ。中(あた)らず。 ここに遂に高漸離を誅し、終身また諸侯の人を近づけず。 高漸離は、鉛(人を殺せるくらいの金属のかたまり)を楽器に仕込んで、始皇帝に近づき、楽器を始皇帝めがけて振り上げた!!あたらず!! (まさかの2度目の「あたらず」!笑) 高漸離は殺され、始皇帝は死ぬまでそばに人を寄せ付けなかった。 荊軻の「不中(あたらず)」のあとにも、なんともう一度「不中(あたらず)」が登場するんですねぇ~。 まあ、義理や友情の素晴らしさを言いたいんでしょうが、しかし目をつぶされているのに始皇帝を襲うかねフツー(笑)高漸離はとんでもないチャレンジャーですな。
  • 司馬遷は宮刑後もずっと牢屋に入れられていたのか?
    なるほど。良い質問ですね。司馬遷は宮刑に処せられた後、3~4年ほど牢獄に入れられていたのですが、釈放されて皇帝の命令を文書化する役職に任命されました。もともと皇帝の行幸に随行したり、宮中の書籍を管理したりする仕事に従事していたため、歴史に関する見識は充分だったのでしょう。釈放後は業務をこなしつつ、歴史記述をライフワークにしてコツコツと『史記』の編纂にあたりました。武帝も宮刑後、司馬遷を自らの巡行に随行させているので、死ぬまで司馬遷をゆるさなかった、ということはなかったようです。それだけ司馬遷の高い能力を認めていたのだと思います。
  • 春秋戦国時代に「周をつぶす」という動きは無かったのか?
    少なくとも「春秋時代」にはそうした動きはあまりありませんでした。あくまで「弱くなった周を誰が支えるか?」というテーマでケンカをしていました。それだけ周の“威厳”が強かったということになります。なぜなら、周の王は諸侯と親戚関係を結び、「本家」と「分家」の関係を作っていったからです。分家が本家をつぶすことなどできませんよね? そんなことをしたら「宗法」に反してしまう。だから「周をつぶそう」という発想そのものが無かったのだろうと思います。しかし、「戦国時代」になると、そうした考えも吹き飛んでしまいました。
  • 諸葛孔明のエピソード教えて!
    蜀の軍師、諸葛孔明は人気が高いですからね。有名なエピソードはいくつもあります。ただ、彼の戦略・戦術は奇抜なものが多かったので、軍師としての手腕は魏の司馬懿(しばい)や荀彧(じゅんいく)、呉の陸遜(りくそん)などが上だという評価もあります。 さて、諸葛孔明のエピソードですが、まず故事成語のもととなった出来事はよく知られています。 例えば、 「三顧(さんこ)の礼」 ・劉備が諸葛孔明を味方にするために三度も訪ね、その誠実さに心を打たれた諸葛孔明が仲間となった。 「死せる孔明生ける仲(ちゅう)達(たつ)を走らす」 ※「仲達」は司馬懿のこと ・五丈原の戦いの途中で諸葛孔明が病死したことを知った司馬懿が蜀軍へ急襲をかけるが、蜀軍が諸葛孔明に似せた木の人形を登場させると、驚いた司馬懿は慌てて引き返した。 さすがに、これらは有名すぎますね。 あまり知られていないところでいくと、世界で初めて「リヤカー」を発明した人物だとも言われていますね。また、蜀の南にいた「蛮族」という異民族を屈服させた際、蛮族が人の生首を捧げるのを見て、「残酷なことはやめて、これからは生首の代わりに豚肉を小麦粉で包んだものを捧げなさい」と指導したとされ、これが「蛮頭」→「饅頭」(肉まん)のはじまりだという説もありますよ。
  • 商鞅の最期を詳しく教えて!
    なかなか切り込んだ質問ですね~。実際に私が目撃したわけではないので、商鞅の最期について書かれた原文を見てみましょうか。あの偉大な歴史著述家である司馬遷の『史記』から、「商君列傳 第十」を抜き出してみます。 【原文】 後五月而秦孝公卒,太子立。公子虔之徒告商君欲反,發吏捕商君。商君亡至關下,欲舍客舍。客人不知其是商君也,曰:「商君之法,舍人無驗者坐之。」商君喟然嘆曰:「嗟乎,為法之敝一至此哉!」去之魏。魏人怨其欺公子卬而破魏師,弗受。商君欲之他國。魏人曰:「商君,秦之賊。秦彊而賊入魏,弗歸,不可。」遂內秦。商君既復入秦,走商邑,與其徒屬發邑兵北出擊鄭。秦發兵攻商君,殺之於鄭黽池。秦惠王車裂商君以徇,曰:「莫如商鞅反者!」遂滅商君之家。 《日本語訳》 五ヶ月後、秦の孝公が死んで、太子(恵王)が即位した。公子虔の仲間が商君が謀反を起こそうとしていると密告したので、警吏が出てきて商君を捕縛しようとした。商君は逃げ出して函谷関の辺りに至り、宿に泊まろうとした。宿の主人は相手が商君だとは知らずに、「商君の法律では、旅券を持たない人を泊めると罪になります(ですのでお泊めすることができません)」と言った。商君は大いに慨嘆して言った。「ああ、行き過ぎた法律の弊害はここまでであったか」。 立ち去って魏に行った。魏の国人は、商君がかつて公子コウを騙して魏軍を破ったことを恨んでおり、受け入れなかった。商君は他の国に行くことにした。魏の国人は言った。「商君は秦の国賊である。秦は強国であるから魏に入った秦の国賊をそのまま帰すわけにはいかない」と。遂に、商君を秦に送り返してしまった。商君は秦に入ると、商邑に逃げ込み、仲間と協力して商の村人を組織した部隊を出して、北の鄭(てい)に出ようとした。秦は軍隊を出して商君を攻め、鄭の黽池(めんち)で殺害した。秦の恵王は商君の屍(しかばね)を車裂きの刑に処して言った。「商鞅のように謀反することがないように」と。更に、商君の一族を滅ぼしてしまった。
  • 秦が中国を統一できたのはなぜ?
    秦の特徴としては、まず盤石な経済力が挙げられます。特に、商工業だけでなく農業政策を充実させて、浮き沈みの無い安定力のある経済を創り出しました。そして、国内の綱紀粛正と政治システムの構築。ちょっと難しい言い回しですが、簡単に言えば、国内の騒乱を罰し、政治腐敗を防ぐための工夫を重ねた、ということです。厳しい政治ではありましたが、国力の増強にはつながりました。外征においても近隣の国と友好関係を結んでいく方針から、遠い国と友好を結んでおいて近い国を討つという方針に転換し、結果として成功しました。
  • 中国史に登場する「変人」を教えて!
    春秋時代に斉の桓公に仕えた料理人「易牙(えきが)」なんかどうでしょうか? 元々料理の腕前の優れた料理人だったのですが、桓公が今まで食べたことのないほどの美味いものを食べたいのというので、考えた挙句、自分の息子を蒸し焼きにして皿に出した、という衝撃のエピソードが現代に伝わっています。まあ、「変人」というカテゴリーからは明らかにはみ出ているとは思いますが…。
  • 中国史に登場する「郡」って何をしているの?
    大変良い質問です。素晴らしい! 「中国」と“異民族”の境界に置かれたのが「郡」ですね。正式には「辺郡」と言ったりもしますが。 とにかく、国境付近に置かれた「郡」の最大の目的は、国土の防衛です。異民族が領土を奪いに来たり、中国王朝の支配がイヤだといって現地の民衆が反乱を起こしたり、さまざまなトラブルに備えることこそが「郡」の使命です。そのためにはまず、強力な“軍”と有能な“司令官”を置く必要が「郡」におかれます。さらに現地の支配においては、反乱を起こす気をおこさせないよう、強く厳しい姿勢で臨まなくてはいけません。住民に対して甘い態度を取ると、いつ反乱を起こしてひっくり返しにくるか分かりませんし、なにより反乱を起こされたと皇帝に知られた時点で自分のクビが飛びます。(比喩表現ではなく、本物の「首」です) ですから、中国の辺境に置かれた「郡」は、現代風にいえば「植民地」的な支配を受けた地域だと理解していいでしょう。
  • 古代中国の娯楽・遊びにはどんなものがある?
    「投壺」(とうこ) 輪投げやダーツの様に、矢や木の棒を壺に投げ入れて競う遊び 「樗蒲」(ちょぼ) サイコロの役割をする平たい板を投げて点数を競ったり、盤上のコマを進め たりして競う遊び
  • 陳勝・呉広の乱の経過をもう少し詳しく教えて!
    授業でも触れましたが、きっかけは農民たちの引率が間に合わず、処刑されるくらいなら反乱を起こしてやる!と不満を爆発させたことにあります。農民らを監視・監督する秦の軍人たちを殺し、不満をもった農民らを味方につけ、新しい国を建てることを宣言し、陳勝が王になることを宣言しました。当然、秦はこれを許さず大群を送り込んで阻止しようとしますが、かねてより不満を持っていた国中の農民たちが陳勝と呉広を味方し、鎮圧にてこずります。ところが、陳勝と呉広は味方内の権力闘争に巻き込まれ、部下たちに殺されてしまいます。 残念ながら陳勝と呉広は死んでしまいましたが、彼らが起こした反乱の機運はやむことなく、そのまま項羽と劉邦の争いに突入していくのです。
  • 「奴国」って何ですか?
    「奴国(なこく)」はかつて倭(日本)にあったと記述されている小国です。場所はいまだ特定されていませんが、現在の福岡市周辺にあったのではないかという説が比較的多いように思います。そのなかでも、「那珂川」や「那の津(福岡のかつての呼び名)」の「那」は、「奴国」の「ナ」ではないか、という主張は有名です。 ただ、「奴国」が中国の歴史書に登場するのは『魏志倭人伝』なのです。後漢時代が終わり、三国時代(魏・蜀・呉)に入ると、三国の一つである「魏」に倭から使いの者がやってきたので、当時の魏の王が『魏志倭人伝』に記したわけですが、『漢委奴国王』が刻まれた金印が贈られたのはそれよりも200年以上前。つまり、金印の「委奴国(わのなこく?)」と、魏志倭人伝の「奴国」が同じであれば、「奴国」は200年以上存続していたことになるのですが、いまだ奴国の存在そのものが日本で特定されていないので、真相は明らかになっていません。ですから、「委奴国」は「わのなこく(わのなのこく)」と読むのではなく、「いとこく」と読むのが正しいのだ、という説も成り立つわけです。
  • 日本から中国へ使者が来ているが、通訳はどうやったのか?
    世界史プリントの記述だけで理解するのではなく、そういった“リアル”な感覚を持つことは大変素晴らしいことですね。 確かに、使者を派遣するとなると言葉の問題は避けて通れませんね。これについてはさまざまな研究がなされていますが、おおまかに言ってしまえば、すでに「倭の奴国」や「邪馬台国」の時代から数カ国語を操れる「通訳士」がいたようです。今から1800~2000年ほど前にもかかわらず、そうした「通訳士」たちがいたのは驚きですね。魏志倭人伝などには通訳士のことについては記述がないのでここからは想像になりますが、普段から、日本と中国大陸を行き来するような、あるいは普段から中国の人と関わりをもっていたような人が通訳士として抜擢されたのでしょう。たとえば、交易(貿易)を行って生活をしているような人々や、港湾都市に住んでいる人たちです。当時の時代背景から言っても、かなり重宝されたのだと思います。 その300~500年後になって、みなさんもよく知っている「遣隋使」「遣唐使」が派遣される時代になりますが、この頃になれば、国がちゃんと「通訳士」養成所をつくっていたことが分かっています。「大宰府」にももちろんそうした「通訳士」養成所がありました。 余談ですが、その頃の「通訳士」は「オサ」と呼ばれていましたが、「曰(い)う」(言う)ことを「佐(たす)ける」(助ける)人たちが住んでいたことから、「曰佐(オサ)」という地名が生まれたと言われています。現在の福岡市南区曰佐(オサ)のあたりです。
  • 日本で化石人類は発見されていないのか?
    実は、日本の土壌は比較的“酸性”で、化石などが残りにくい地域として知られています。ですから、他のアジア地域やアフリカ、ヨーロッパなどと比べても、化石人類の発見数が少ないのです。それでも、酸性の度合いが弱い「石灰岩の採石場」や、「沖縄県」では人類の化石が発見されています。有名なものでいえば、山下町洞人(沖縄県)や港川人(沖縄県)、浜北人(静岡県)などです。年代としてはいずれも「原人」に相当する化石とされています。しかし個人的には、やはり「猿人」クラスの年代の化石が日本の“酸性”土壌から発見される確率は相当低いと言わざるを得ませんね。
  • 墨家たちは戦争の抑止力になり得たのか?
    結果的に「抑止力」のような存在になったことは間違いありません。実際、このような噂が広まると、各国が墨家に協力を要請し、墨家そのものがまるで「戦争請負集団」のようになってしまいました。 ただ、色々な研究者が指摘していますが(私もこれに同意しますが)、墨家は「エゴイズム」の徹底排除を最大の目的の一つとしていました。分かりやすく言えば、儒家の説く「家族愛」は、見た目は素晴らしいですがそれと同時に「ウチの家族と他の家族は全く性質の異なる別のモノなのだ」という区別(差別)する意識が裏側に存在していませんか? だって、他の家族の子どもが自分の家族の食卓にいきなり潜り込んできたら、「早く家に帰りなさい」と追い出しますよね?   国同士の関係性もこれと同じで、「愛国心」が芽生えると同時に、無意識的に「あの国とウチの国は違うのだ」という意識が生まれていますよね? だから墨家は、儒家の考えでは絶対に世の中全てが「平和」「平等」になることはない、と断言したのです。「平和」「平等」のために、あえて「自分の家族」「自分の国」という考え(エゴイズム)を捨て去りなさい、と説いたのです。ところがこれは儒家をはじめとしたさまざまな学派から批判を受けます。特に孟子なんかは、「平和のために自分の親を忘れなさいなどとほざく墨家は、親への感謝を知らないままに成長する獣と同レベルの最低な人間たちだ!!」と激しく非難しています。墨家と儒家の対立は平行線をたどり、やがて墨家はその争いに敗北し歴史から消えていったのです。
  • 劉邦が統治していた前漢の資金源は?
    なるほど。面白いポイントに目をつけましたね。つまり、「王朝」を運営するための資金はどこから捻出されていたか、ということですね? そういった資金の中心となるのは、なんといっても「農民」から徴収する“税”です。税にもいくつか種類があって、農業生産物に対して○○%を課税、とか所有する土地の広さに応じて課税、とか家族1人あたりにつきこれくらい課税、などその徴収方法はいろいろとありますが、結局、徴税の主たる対象者は「農民」なのです。大土地を所有し、各地方を治める「有力者」は、王朝を“軍事面”から支えるのであって、“金銭的”に支えるのでありません。 時代が前漢からもう少し下ると、“王朝が国内全ての土地を所有して、細かく国民を管理したほうが良いのではないか?”という意見が大勢を占めるようになり、やがて「公地公民」という考えが出来上がります。特に、唐の時代以降は日本にも伝わり、いわゆる「大宝律令」へとつながっていくのです。
  • 劉邦はどうやって死んだのか?
    劉邦は項羽との戦いに勝利した後、何度か部下の反乱にあいます。中でも、元々は項羽の部下で、項羽と衝突したために劉邦のもとへ落ち延びてきた英布(えいふ)という武将がいたのですが、やがて劉邦へ反旗を翻します。結果的には劉邦が英布を破り、前漢はますます栄えていくのですが、その戦いの途中に流れ矢が劉邦へ当たります。当時は衛生的な技術もまだ確立されておらず、その傷がもとでやがて病にかかり、死んでいきます。「項羽と劉邦」という壮大な歴史ドラマの勝者ですが、死ぬときは意外とあっけないものですね…。 死ぬ間際、妻の呂后から「あなたが死んだら誰が政治をすればいいのか?」と問われます。 呂后「あなたが死んだら誰が政治をすれば良いの?」 劉邦「蕭何(しょうか)に任せよ。さらにその次は曹参(そうしん)で良いだろう」 呂后「その次は?」 劉邦「王陵(おうりょう)や周勃(しゅうぼつ)、陳平(ちんぺい)に任せよ」 呂后「そしてその次は?」 劉邦「何歳までいきるつもりだお前は(怒)。あとは、その時代の者たちが決めれば良いではないか」 という話しも有名です。ただ、この遺言通りにはなりませんでした。呂后が政治の権力をすべて握ってしまうからです。
  • 劉邦はワルの親玉?
    良い指摘です! 漢文の授業でも教わったかもしれませんが、実際劉邦の素性は、やんちゃでチンピラ風の人たちをうまいことまとめたような、ちょいワルオヤジのボス的な存在でした。名門出身の項羽とは全く異なります。現代風に言えば、成人式で暴れまわってるような人たちの憧れ、アニキ分、てな感じでしょうね。義理に厚く、部下たちの話をよく聞き、そして面倒見が良いので、皇帝というよりワルの親玉の方が似合っているのもうなずけます。 ところが、劉邦の美談はあまりないんですよ(笑) この人、やっぱりいろんな場面で“いい加減”というか“テキトー”というか、行動がよく分からんのですよ(笑) 確かに、秦の皇帝を殺さなかったり、咸陽を不必要に荒らしまわることはしませんでしたが、例えば項羽と戦って敗れ、逃げまわるときには、馬車が重くなってスピードが落ちるからという理由で、自分の子どもたちを馬車から放り投げています。それを部下の夏侯嬰(かこうえい)が必死で拾いあげるのですが、劉邦はまたしても子どもをポイ……。夏侯嬰がまたまた必死に拾いあげるも、またまたポイ……。こんなことを何回も繰り返しています。(子どもたちはなんとか助かりましたが) また、韓信という優秀な軍師が項羽から寝返って劉邦側につくのですが、韓信の優秀さを見抜いたのは劉邦の部下の一人である蕭何(しょうか)という人物です。 とにかく、劉邦という人物そのものには特に優れた素質や人徳があるわけではないのですが、劉邦に魅せられた部下たちが大変優秀で、ことあるごとに劉邦のピンチを救ってきたのです。(そういう人物を引き寄せること自体が劉邦の“強み”なのかも) なぜ劉邦が項羽に勝利できたのかというのは、中国史における永遠の謎の一つでしょうね(笑)
  • 呂布の生涯とその最期を教えて!
    呂布(りょふ)……。最強の武将の名をほしいままにしながらも、自らの立場をコロコロと変えたので、信頼されず窮地に陥った武将です。 はじめは董卓に仕えていましたが、絶世の美女貂蝉(ちょうせん)をめぐって争い、董卓を殺害。その後は袁術という武将を頼りますが、性格を見抜かれ部下に採用してもらえません。怒った呂布は、袁術のライバル袁紹の部下となりますが、傲慢な性格が災いして殺されかけます。その後も、主人を変えて曹操軍と戦いますが、魏の軍勢に勝てず、一時逃亡。蜀の劉備のもとにあらわれ、劉備の手下になります。劉備は呂布の危険性を感じていましたが、その予感が的中し、なんと呂布は劉備を裏切って自らの国を建てます。劉備は呂布と和睦して、一時的に立場が入れ替わってしまうのですが、ここで劉備が曹操を頼ります。曹操はいよいよ呂布を討つことを決意し、大軍を引き連れて呂布を捕まえます。呂布は各方面に援軍を要請しますが、今までの行いが災いして援軍も来ません。こうして呂布は死んでいくのです。 もう少し誠実に、計画的に事を起こしていたなら天下を取れていたかもしれませんが、やはり無節操であった印象は拭えませんね。
  • 匈奴って何者?
    良い質問ですね~。地図と字面だけでは実体がつかみにくいですよね。「匈奴」。 まずはじめにざっくり言ってしまえば、中国の北方、モンゴル~中央アジアにかけて、主に馬を上手に駆使しながら勢力を伸ばした民族です。中国からみれば常に邪魔な存在なので“異民族”として敵視されますが、最低でも500年以上はその勢力を衰えさせることなく活動を続けていたわけですから、ある意味ではむちゃくちゃ“スゴい民族”だと言っていいでしょう。ちなみに、匈奴が成長を始めたのは戦国時代くらいからで、秦や漢、隋に至るまで影響を保っていました。モンゴルで活動したから、じゃあ匈奴はモンゴル人の祖先かと言えば、実はまだそのあたりのことはよく分かっていません。中央アジア起源、南ロシア起源などいまだに色々な学説が飛び交っているのが現状ですね。
  • 匈奴の内部で反乱等はなかったのか?
    冒頓単于がクーデターで父から政権を奪取した当初はかなりの逆風があったと予想されますが、その後匈奴の勢力を盤石なものにするに従って刃向かうものはいなくなっていったのでしょうね。そもそも、漢王朝からはかなりの金品を引き出しているので、匈奴は経済的にも困らない。困らないということは、そもそも匈奴内部の人間が冒頓単于体制をひっくり返してやろう、と思うことは皆無でしょう。満たされている状況を積極的に崩したいと思う人間はいませんから。ただ、個人的に冒頓単于から冷遇されている、数十年来の恨みがある、という人はクーデターを画策したかもしれません。実際に、前漢側に寝返った匈奴人も、少数ですがいたと推測されます。 ただし冒頓単于の死後から数百年後、匈奴の勢力が危うくなってくると、匈奴内部での権力闘争も激化します。そうした流れの中、最終的には匈奴は東西に分裂をし、やがて歴史の表舞台から姿を消します。
  • 宦官になるのはどういった人たち?
    たしかに「宦官」という存在は、少し理解しにくいですよね。宦官になる(される)パターンは大きく分けて4つほどあります。 ①「刑罰」として宦官にされる  皇帝の怒りに触れたものや、何らかの悪事を働いたものへの刑罰として、「宮刑」「腐刑」というものがあります。死刑に次ぐ重い刑罰で、宦官にされた後、宮廷内で死ぬまで働かされます。現代風にいえば「終身懲役」でしょうかね。 ②宮廷での職に就くために自分で宦官になる  生きていくために自ら施術して宦官になる人も多くいました。 ③優秀な人間を宮廷内で雇う際の“通過儀礼”として宦官にする  宦官に囲まれることこそが権威の象徴である、と考える皇帝もいたようで、そういう皇帝が国を治める時には宦官の数が増大します。 ④戦争で得た捕虜を、皇帝に宦官として献上する  戦場で殺してしまうには惜しい人物は、敵であっても助命されることがよく あります。その場合、宦官にして皇帝に献上し、目の届くところに置いて その人物の能力を発揮させる、というケースが多いですね。 「宦官」のイメージ、少しはっきりしてきましたか?
  • 宦官の数は増減しなかったのか?
    なるほど。なかなか面白い着眼点ですね~。 宦官の数は、その時代の皇帝(王)の方針によってかなり左右されました。例えば、 「宦官の数こそ、皇帝の権威の象徴だ!」と考える皇帝は宦官の数を増やしましたし、「宦官は政治腐敗の原因になる。俺の政治には邪魔だ!」と考える皇帝は、権力を握ったときにそのほとんどを殺してしまう、なんてこともありました。ただ、「宦官」という制度そのものは、20世紀の初頭まで維持され続けました。
  • 宦官はいつまで生きていた?
    なるほど。そういう疑問も当然出ますね。ただ、現代の中国に宦官はいません(自分でそういう手術を受ける人は別として)。性器がないから政治の中枢に潜り込める、みたいなことも当然ありません。中国における宦官制度は20世紀初頭、清王朝の滅亡とともに次第になくなっていきましたが、その時宦官だった人たちは当然その後も生き続けました。宦官は常に世間から隔絶された空間で人生を送ってきたため、宮中を出ても、自分が宦官であったこと、そのときの経験談を他人にあまりことはなかったようです。そのため、最後まで生きた宦官が誰であったのかを特定するのはなかなか困難でしょうね。ただ、清朝滅亡直後にラストエンペラー愛新覚羅溥儀に仕えるために、14歳で宦官となった孫耀庭(ソンヨウテイ)という人物が自身の歩みを語った内容が『最後の宦官』というタイトルで出版されています。この人物は1996年に94歳で亡くなっています。つい最近の出来事ですね。
  • アンリ・カルティエ=ブレッソンはどうやって宦官に出会った?
    アンリ・カルティエ=ブレッソンは「現代フォトジャーナリストの父」と言われるほど有名な写真家なんですが、「フォトジャーナリスト」という単語でも分かるように、彼は単に芸術性の高い写真を撮るのではなく、政治や経済の激動をそこに生きる人々の目線から捉えようとしたのです。 有名な「宦官」の写真ですが、これは第二次世界大戦直後の1948年に撮影されています。その時期の中国は、国民党と共産党が内戦を繰り広げていた時期で、まさに混乱状態にありました。そうした危険な時期にあえて中国の北京に飛び込んで、人々の生活の様子をカメラに収めていったのです。アンリと「宦官」との邂逅(かいこう)の詳しい様子は分かりませんが、おそらくアンリは興味本位で撮ったのではなく、これからも続くであろう激動の時代を駆け抜けてきた生き証人として、近代中国史の象徴的存在として「宦官」にフォーカスを絞ったのでしょう。普段、人目にさらされることを嫌う宦官たちが撮影に応じたのも、そうしたアンリの想いが通じた結果だったのかもしれません。
  • 殷周時代の庶民の服装は?
    Webでこんなの見つけました。 出典は『中国古代人物服式与画法』(上海人民美術出版社)という本だそうです。タイトルから察するに、古代中国の人物を描くときに服装をどのように描いたら良いのかを示したお手本集、といったところでしょう。 殷・周からは少し下りますが、春秋戦国時代~秦にかけての時代を想定したものです。 全体的なイメージとしては、布を数枚羽織って腰のあたりでキュッと軽く絞る、ボタンは使わない、というスタイルが一般的だと思われます。中国では仰韶文化の頃からすでに布(麻布)が作られていたことが分かっていますので、殷や周の時代も、これとさほど変わらなかったのではないかと思います。
  • 饕餮(とうてつ)ってどんなやつ?
    「饕餮」をかたどった像だそうです。なんかかわいいですね。 こちらは現代風の想像図。ずいぶんかっこいいです。
  • なぜ専売で国の財政状況が好転するのか?
    塩などの生活必需品は、万人が欲するものですから、これを国だけが販売することにして、その値段も好きに設定してしまえばいくらでも儲けがでますよね? たとえば、100グラムの塩を100円で売っていたところに、国の財政状況が悪化したから明日から100グラム1万円に値上げします!と発表すれば、民衆はいやでも国から買うしか無いので、必ず値上げした分の儲けが発生します。これが「専売」です。ちなみに、「生活必需品」でないと専売の効果はあまりありません。コーラを1本1万円にしたところで、「じゃあ、別にコーラなんか飲まなくていいや」となりますからね。生活必需品ではないコーラを専売にしてもたかが知れています。 ちなみに言えば、「塩の密売商人」は民衆のヒーローだったようです。専売制による値段の吊り上げで家計が苦しいときに、その塩を国よりも安く売ってくれるのですから、生活を守ってくれるヒーローに他なりません。もちろん国はこうした密売商人を捕まえては処刑にしていましたが、村人たち全員で密売商人たちをかくまったり、警吏に嘘の情報を教えたりしていたようです。
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